2011年1月 2日 (日)

そのときホノルルにやってきた「狩人の泉」号

1941年12月7日朝,真珠湾攻撃の最中に運悪くホノルルに入港してきたオランダ商船Jagersfontein,そのBrouwer船長と乗組員乗客の体験を,現地のオランダ領事が当時ロンドンに亡命していたオランダ政府の外務大臣に当てた同12月21日付の報告書で語る(英文).

http://gerard45.bloggertje.nl/note/19341/1941-opvarenden-van-de-'jagersfontein'-waren.html

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2010年9月 1日 (水)

9月17日のアーネムの戦い記念日にちなんで「アーネムの橋」特集

9月17日のアーネムの戦いの記念日がまた近づいてきました.

偶然この時期にオランダ勤務の古い友人に映画「遠すぎた橋」を紹介する機会があり,ついでに「WWW講談:アーネムの橋」を宣伝しておこうとウェブ上を行ったり来たりしていたら,最近は橋を訪ねる日本人も増えたようで,たくさんブログの記事が見つかりました.その主なものを記録しておきます:

アーネム 遠すぎた橋 (2010/07/23)
http://oranda.blog61.fc2.com/blog-entry-556.html 
そらのおらんだ通信ひとりごとブログから.「アーネムの橋」をどうしても見たかったお父さんを戸惑いつつ案内するオランダ在住のそらさん.

アーネム Arnhem 『遠すぎた橋』の街 (2007/12/02)
http://4travel.jp/traveler/shinesuni/album/10039949/
shinesuniさんの旅行ブログから.旅行の実用情報と写真が豊富.1996年05月21日の訪問? 実用情報の方はそれより新しそう.

同じく4travel.jpの砂布巾さんのブログから
マーケット・ガーデン作戦 1944年9月17日(2007/09/17)
http://4travel.jp/traveler/snafkins-lifework/album/10181230/
写真が29枚も.2005年03月19日~03月20日の旅.

映画「遠すぎた橋/A bridge too far」の舞台,アーネム/Arnhemを訪ねて (2005/04/14)
http://blogs.yahoo.co.jp/het_mozaiek/1443758.html
調査隊,オランダを行くから.映画と史跡の紹介を写真入りで.

遠すぎた橋 (1977)  (2007/09/17)
http://pia-eigaseikatsu.jp/com/3231/289236/
は,ぴあ映画生活.映画に関連するエピソード等.

ついでに私のこのブログの関連記事は:

Arnhem (2006/05/29)
http://yasuaki-kobashi.cocolog-nifty.com/nedlog/2006/05/arnhem.html
 アーネムの橋について

アーネム戦最後の日 (2006/09/26)
http://yasuaki-kobashi.cocolog-nifty.com/nedlog/2006/09/post_f61b.html
 オードリー・ヘップバーンとアーネム戦

アーネムの戦いから64年 (2008/09/18)
http://yasuaki-kobashi.cocolog-nifty.com/nedlog/2008/09/64-02c8.html
 この年は記念日の直前アーネムに居たので.

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2010年8月17日 (火)

オランダが日本に宣戦布告した日

Gerard's WOII blogはオランダ側から見た第二次世界大戦中の出来事を Gerard de Boer氏が独自の観点でまとめたもの.当時の新聞記事の切り抜きがたくさん掲載されています.

真珠湾攻撃の翌日の1941年12月8日,ロンドンに亡命中のオランダ政府はさっさと日本に宣戦布告してしまった.日本側は最初のうち,オランダは敵と見なさないなどと言っているのだけれど,オランダ植民地軍がシンガポールの防衛に駆けつけたり,オランダの潜水艦が日本の輸送船を攻撃するといった事件を経て,19日ついにボルネオ島を爆撃する.

De Nederlandse oorlogsverklaring aan Japan (1941) という記事にはそのあたりの様子が描かれています.

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2008年3月13日 (木)

ケンペルの著書の部分訳タイトルが「鎖国」の起源

asahi.com:江戸時代は本当に鎖国か? 見直し進む対外歴史研究 - 文化一般 - 文化・芸能.

 「鎖国」という言葉が登場したのは、19世紀(江戸後期)に入ってからとされる。オランダ語通訳で蘭学者の志筑(しづき)忠雄が1801年、オランダ商館の医師ケンペルの著書『日本誌』の一部を『鎖国論』と名づけて訳した。幕府が禁教令などを出した17世紀に「鎖国」の概念はなかった。

...  「鎖国」が日本古来の「祖法」と見なされていったのは18世紀末(江戸後期)以降。ロシアの使節ラクスマンが通商を求め根室に来航したのに接し、幕府が1793年、従来の対外政策を「国法」と文書に記したのがきっかけだったが、強国ロシアとの紛争を避けるため、貿易もやむなしとの考えも幕府にあったという。「でも、タテマエとして『国法』『祖法』を持ち出してしまった以上、その後は見解を容易には変えられなかった」(藤田教授)

(*「藤田教授」は山川出版社「新日本史」の著者,藤田覚・東京大教授)

この18日に国立歴史民俗博物館が江戸時代の展示を衣替えし,対外関係の説明を「近世日本は、『鎖国』をしていたと思われがちだが、東アジアのなかで孤立していたわけではない」 と改めるのを機にした記事.2年前までは、「鎖国体制が確立すると……」といった記述があり,朝鮮や琉球,アイヌを通じた交易などについての展示はなかったそう.

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2008年2月28日 (木)

日蘭通商400周年

Four centuries of Japanese-Dutch trade relations - News.

Calender of Events, updated 21 January 2008

Events organised by various parties in the commemorative years 2008/2009.
The Steering Committee 2008/2009 does not have the financial means or the authority to approve or reject events.
It does however, reserve the right to subject proposed events to an evaluation to ensure they meet the requirements necessary to be included in the 'Calender of Events'.

ついこの間リーフデ号の来訪を記念する日蘭友好400周年を祝ったような気がしていたのに月日の経つのは早いもの,こんどは日蘭修好通商条約締結150周年(2008)と徳川家康による日蘭貿易開始400周年(2009)の記念で日本オランダ年2008-2009,だそうです.

上記のサイトはオランダ側の運営委員会のもののようですが,関連の行事を承認したり拒否したりする資金も権限もないが,提案された行事を評価し必要条件を充たしているものを公式行事カレンダーに載せると宣言しています.

関連サイト

  1. オランダ政府観光局のお知らせ

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2007年10月26日 (金)

ペリーはオランダの態度にイラ立っていた

幕末ペリーのイラ立ち、米公文書館で機密文書発見 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞).

米海軍のペリー提督が1853年、幕府に開国を迫った際に記した機密文書が、米国立公文書館で発見された。 友好国オランダの姿勢を激しく非難したり...。

 当時、米政府はオランダに対し、ペリーへの協力を要請していた。ところがペリーはこの書簡で、「気まぐれな(江戸)幕府の暴政に対して唯々諾々と従っている卑屈なオランダ人の態度を見ると、信用などできるはずもない」、「もし長崎へ行っていたら、オランダ人たちを顧問団の一員に加えることになっただろう。一度それを認めてしまえば、二度とオランダの影響から逃げられなくなったはずだ」などと指摘。政府の方針に反して幕府と直接交渉した理由を明らかにしている。

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2007年8月17日 (金)

南洋鍼路図

山陰中央新報 - 第2弾(1)南洋鍼路図【リーフデ号海図】(東京国立博物館所蔵)

リーフデ号と石見銀山についての第二報.南洋鍼路図の写真付きの記事です.

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2007年7月21日 (土)

リーフデ号と石見銀山

2007年,ユネスコの世界遺産への登録が決まって注目を浴びる石見銀山ですが,

 ポルトガルに独占されていた石見銀山に関する情報が、広くヨーロッパ各国に知れ渡った事実を示す地図が、1595年にアントワープ(ベルギー)で銅板印刷されたテイセラ作日本図だ。 (山陰中央新報 - 世界に知られた銀山(1)欧州古地図が「価値」証明)

アントワープの陥落から10年.南部低地諸邦がスペインの手中にあった頃の話.

 1600年、オランダ商船リーフデ号が、豊後(大分県)に漂着。船に積まれていたのが「南洋針路図」だ。この地図には、石見沖の日本海にポルトガル語で銀鉱山群と記載されている。リーフデ号はポルトガルの地図情報が漏れて作成された海図を使い、日本に銀を求めてやって来たのだ。 (同上)

リーフデ号は香料を求めてモルッカ諸島に向かっていたという話をよく聴くので,ここまではっきり銀を求めてとしているものは珍しい.のちのオランダ東インド会社にとっては日本の銀が重要な商品になったようですが.

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2007年3月20日 (火)

オランダのカノン

entoen.nu | De canon van Nederland.

de【canon】 (カノン,第1音節にアクセント)

大砲は "kanon" で第2音節にアクセント.英語だとそれぞれ"canon", "cannon"で綴りは違うけれど,発音は第1音節にアクセントのあるキャノン.会社名のキヤノン(Canon)はむろん大砲とは無縁で"n"がひとつだけ.観音様に関係があるときいたことがありました.

気になって日本語版ウィキペディアで調べてみたら,「社名の由来: 聖典、判断基準などの意味を持つこの語が精密機器を扱う同社にふさわしいと思われたこと、および社名を決める前に発売を予告した製品名KWANON(観音・未発売)カメラと音が似ていることなどからCanonと名付けられたもの。」
「創立者吉田五郎が熱心な観音教の信者で」
といった記載があった.やっぱり.

ついでに脱線しておくと大砲の中でも砲身の長いものをカノン砲ということがあるのは英語の"cannon"から来たという解説をよく目にするけれど,アクセントなど発音からも大砲が日本に入った経緯からも,オランダ語の"kanon"が元になったと考えたほうが自然な気がしますね.ちなみに"kanon","cannon"の語源はラテン語の"canna"で「葦」とか「筒」のこと.昔日本でも「大筒」(おおづつ)と呼ばれていたのは素直な訳だった.

話を"canon" に戻します.こっちは既に見たように規範とか規準とか規範になるような聖典で,物差しにつかう棒が原義らしい.教会の中とかは別として日常会話でめったに使う語ではないように見えます(音楽のカノンは例外)が,2006年の10月16日にファンオーストロム委員会(オランダカノン開発委員会)が「国史のカノン」(De Canon van de Vaderlandse Geschiedenis)を発表して,けっこう評判になっているらしい.これは「オランダがいかにして現在われわれの住んでいるような国になったかを示す重要な人物,文書,芸術作品,物品,現象,プロセスの全体」を指すとのことで,紀元前3000年くらいの巨石遺跡(Hunebedden)からはじまり,ハンザ同盟,エラスムス,オラニエ公ウィレム,東インド会社はもとより,近いところではアンネ・フランク,テレビ,スレブレニッツァ,多文化社会に至る50の項目が選ばれている.学習指導要領とかとは違って拘束力があるとか微に入り細を穿つものではないけれど,枠をはめられるのがキライなオランダ人の間ではさっそく対案の(alternatief)カノンを作る試みが流行っているとか

面白いのはカノンのホームベースになるこのウェブサイトがあり,カノンがWiki形式で提供されているほか,カノンに関わる様々な文書がダウンロードできるようになっています.

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2007年1月29日 (月)

1662/01/28 鄭成功がオランダ人を駆逐

[中国情報局 2007/01/29]

【今日は何の日?】1662年:鄭成功、オランダ人を駆逐.

 1662年1月28日、台湾を植民地支配していたオランダ総督が鄭成功(ていせいこう)に投降、オランダは台湾から撤退した。

母親が日本人だといわれる鄭成功(1624-1662)は父のあとを継いで「海禁」を犯しつつ貿易活動を行っていました.当時台湾はフォルモサと呼ばれオランダの植民地でしたが,鄭成功は大軍を進め攻撃,オランダ軍はゼーランディア要塞に拠って抵抗を続けたものの1662年1月28日に至って投降しました.

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